言われるうちが花
私は人になにかを教えるのがそこそこ上手い
天才と言われるタイプの達人さんには、人に教えるのが上手いタイプと、ただただ天才的に上手いカリスマのどちらかに分かれると思う
あ、私は天才とかではなくて、だいたいの人がする失敗はまあまあ経験してきている不器用なタイプです←
なんで教えるの上手いーって言われるなかな?と考えてみたことがあって、やっぱり失敗してきているからかなと思う
自分で失敗の経験を積んでる「プロの失敗屋」なので、だいたいの失敗する人の「失敗するパターン」がわかるんですよね
昔、喫茶店でアルバイトをしているときのことなんだけど、「あ、このまま行くと失敗するな、、そしたら店長にこっぴどく怒られるんだろうなあ」って思い浮かぶと、その失敗しそうな人のことが放って置けなくなる。なので、アドバイスをしたり、自分が失敗するときの癖と、正しい方向に向かわせるための手段を伝えてあげる。
自分がどこで失敗しているのかと、成功した場合の目的や意味がわかってくると、上手く教えられるのかも
だから私は不器用なのだけど、私自身は不器用なのだけど、そんな私に根気よく教えてくれる人はいつも優しいなあと思うのだ
店長がね、よく言っていたの
『人は指摘してもらえるうちが花』
『何も言われなくなったら、終わり』
五体満足
人は常に選択を迫られる。
でも全部をよくばりには選べない。
だって
いつも私には1つの身体しかないし
いつも私には1つの心臓しかないし
いつも私には腕は2本までしかない
いつも私には足は2本までしかない
あー、でも、私は五体満足だってことに気づいた。
あのときあれをしておけば良かったなあ。これを選んでいたら未来は変わったのかなあ。と思うことが多い。
けど、どんなときも私にはちゃんと動く身体がある。
私はこの季節は花粉症がつらいとか、手術跡が痛むとかあって、きっとみんなそれぞれ不自由もあると思うけど、でも、私にはちゃんと動く身体があるのだ。
身体があるから、選択肢のなかから選ぶことができている。
これって五体が満足じゃない?
今回、6/15(土)に 五体不満足の乙武さん の講演会に、スタッフ兼主催の方々のマネージャーとして参加させてもらうことになった。
実際に去年の夏、乙武さんと30分間 1対5でお話させてもらう体験をしたのだけど、五体は不満足そうにみえなかった。
肘から下がないので、もちろん手がないのだけど、乙武さんの話す姿には「身振り手振り」があった。コップを誰の手も借りずに腕と口で器用に掴んで飲み物を飲む姿には「掴んでいる動作」がたしかにあった。
そこには無いはずの肘から下があるようにしか見えなかった。
「親が障害者用の学校には入れず、普通の学校に通っていたからか、この生活は普通なんです。僕は自分に障害があるとは思ってません。もし、障害者用の学校や、そういう扱いを受けていたら、『自分は障害者なんだ』と思っていたかもしれませんけどね」と、乙武さんの言葉が私には寝耳に水で、頭から離れない。
そんな乙武さんが始めた義足プロジェクト。
https://www.google.co.jp/amp/s/dot.asahi.com/amp/aera/2018122100059.html
乙武さんが義足で歩けるようになるチャレンジを、応援するための講演会。そんな講演会に携われることが嬉しい。
まだ3ヶ月以上も先のことだというのにスタッフ間での準備が昨日からはじまっていて、興奮がおさまらず。ご飯を食べるのも忘れて、新しいゲームを買ってきた日みたいに、夢中になっている。
このワクワクを、乙武さんのことを、講演会を実施することの難しさを、他の人にも知って欲しくて、スタッフグループへの参加権の販売がスタートした。
当日のスタッフでの参加が難しい人
講演会実施のノウハウを学びたい人
おすすめです(^^)
銃口を向けるということは、覚悟が必要だ
人を馬鹿にする。人を見下す。相手よりも優位に立ってマウントを取ろうとして、一体どんな意味があるのかな。
馬鹿にしたらなにかが手に入るのかい?
優秀であることは私たちが人間として生きる社会で、お金やらなんやら、生きるために必要な財産を手に入れることができるだろう。
でも優秀である人のその地位は、敬われる存在は、その人がそれまでに築き上げてきた経験や人望が素晴らしいから優秀なのだ。優秀だから、結果的に誰かの上に立っていたりするのだ。
誰かの上に立ってマウントを取ることが優秀である証ではない。
東京の一等地に高いビルが立ち並ぶ。
高いビルが建っていることが偉いのではなくて、高いビルを建てられるほどの財を築き上げたことがすごいのだ。それが借金まみれで無理して建っていたならば、ハリボテだ。
嘘だ。虚構だ。
そうやって人より上に立つことで、立っているつもりで、一体 自分のなにを守ろうとしているのかな。
猫が敵に対峙したときに、少しでも自分の身体を大きくみせて強そうに見せて、自分を守ろうとする行動に似ている。
私の好きなものを知らないことや、私に興味がないことはいいんだ。そんなのなんだっていい。自分の好きなものを好きであればいい。それ以外は無価値でいい。
でも、自分にとって無価値なものを馬鹿にするのは、私はだめだ。
それをしてしまったら、、、私もあなたの価値のあるものを、守ろうとしている小さなプライドを、傷つけてもいいのかい?
ドラクエ風にいうと、すべての魔法攻撃をそのまま相手に跳ね返す「マホカンタ」を使っているのと同じなのよ。
だからね
相手に銃口を向けるということは、自分にも銃口を向けられてもいいということ。
殺される覚悟があるのかい?
東インド貿易会社
私は新卒で入社した最初の業界が「保険」で良かったと思っている。
保険ってさ、騙したり(結果的に、も含む)、押し売りの代名詞みたいに上がるからみんなに毛嫌いされがち。
なんだけど、少額のお金を出し合って、誰か仲間にピンチが起きたときは、その集めたお金を使ってね。そういう考え方で出来ているのが、なんだかあったかいなあと思っているから、保険の成り立ち自体はすごく好きなの。
世界で最初に保険という制度ができたのは、東インド貿易会社ができたとき。塩や胡椒を海を渡って届けたり、受け取ったりの輸出入をしていた時代。
嵐や航海術が不安定な時代。
そんなときに出来たもの。
だから、良いものが必要な人に届いていてほしいなと思うのよね。そういうのを知れたから、保険の業界に入ってよかったと思うのだ。
ウサギとカメ
良い人と優秀な人は両立して存在しづらい
良い人は要領が悪い
良い人は優しい
リレーで追い抜かされても優しいから、追い抜かされるどころか、道を譲ってしまいそう
自分の足でどうしたら勝てるかに知恵をまわすよりも、優しさに知恵を回してしまいそう
優秀な人は自分を優先させる
優先させることができる
他者を蹴落としても、他者にずるいと後ろ指を指されても、「優秀になろうとする自分」を優先させてあげることができる
良い人と優秀な人って両立する?
正しさが を生み出す
社会とは、人と人が複数人、2人以上の人間がコミュニケーションを取りながら形成されるもの。
そのなかでは、そりゃみんな幸せでありたいけど、1人が好き勝手なことをして、他の人が我慢を強いられる状態はしんどい。
だから、道徳的な、ルールを、マナーを作って守りましょう なんてものが存在する。
その決まりごとを破る人は時に、「犯罪者」と呼ばれる。じゃあ悪いことをした人は、悪なのか? 悪はどこから生まれるのか。
悪は『正しさ』が生み出しているんだ。
と、と書いてある本を読んでいて、日常に当てはめた思考を楽しんでいる。
例えばあなたは会社員で、出勤時間が決まっている人は多いと思う。
でもさ、休みたいとき、ない?
電車が遅延すること、ない?
お腹が朝急に痛くなってトイレに駆け込むこと、ない?
朝起きたら熱を出していること、ない?
あるよね。それで遅刻したら、休んだら、申し訳ないと思うことや、許しが得られないときがある。
それってさ、あなたや許可を出す相手が、「会社員は体調も出勤時間も管理されているべきだ」という正しさを持っていて、そこから外れる人を勝手に【悪】だとしていないかな。
でも、熱だから風邪だと思って軽く考えてたら、子宮筋腫で、放置していたらガン化していたかもしれない私はそのまま我慢して会社に行き続けていたら死んでたんじゃないかな。
長期的にみたときに、その体の異変を放置していたら、それこそ私にとっての「悪」になっていたと思う。私が私をいじめる、私にとっての「悪者」になっていたと思う。
正しさが悪を生み出す